03 出発

1991年02月 TOKYO


 ありとあらゆる所に足を運び、電話をかけ、本を読み、しだいに情報が集まってきた。国際運転免許のこと、国際ナンバープレートのこと、カルネのこと、グリーンカードのことバイクを輸送してくれる運輸会社も見つかった。
 今まで漠然としていた海外ツーリング計画の情報が、ジグゾーパズルを埋めるように、一つ一つつながりを持ってまとまり始めた。ほとんどの問題は足を運ぶことで片づいてしまった。それでも、最後までヨーロッパの交通事情ガソリン事情ははっきりせず、行ってみなければ分からないということになった。そして、いくつかの条件を検討した結果、バイクを輸送し最初に出発する国はイギリスに決まった。
 未解決の問題はグリーンカードだった。ありとあらゆる保険会社にあたってみたが、グリーンカードを取り扱っているところはどこにもなかった。似たような保険をAIUが出していたが、免責額が1千万円!なので全く検討の対象外だった。ある保険代理店に相談したところ、イギリスに行けば現地の保険会社で加入できるかもしれないという情報を教えてくれた。確実な情報ではなかったが、日本で加入できない以上現地で探すしか方法がなかった。

 最初の頃は強行に反対していた父親も、CB750Ex.が家の前に鎮座するようになってから、ここまできたらもう何を言ってもきかないと思ったのか、あまり言わなくなってきた。家族を説得するのに1年という期間は十分なようだった。

 長い準備期間があわただしく過ぎて、いよいよバイクを輸送するため、コンテナ埠頭に持って行くときがきた。バイクは完璧に整備し、必要な改造は施してあった。
 この日は快晴だった。東京の冬は晴れる日が多い。昼食をすますと準備しておいた荷物をバイクに載せた。全く大変な量だ。車両重量が300KgのCB750Ex.に荷物を満載すると360Kgになる。ツーリングが始まればこの重量状態で毎日走ることになるのだ。私は、現地での部品調達に自信がなかったので、かなりのスペアパーツ類を載せていた。今にして思えばそれは取り越し苦労で、15kgは軽く出来たと思うが、このときは分からなかった。全部の荷物を載せ終わり、ヘルメットをかぶってバイクに跨る。車体をまっすぐにするとき、ずっしりと重さが手に伝わった。「じゃあ、行ってくるよ。」と母親に声をかけて出発した。バックミラーで後ろを覗くと、心配なのかずっと見送っていた。

Yokohama Bay Bridge 走り出してみると、それほど重さは感じなくなる。ただ明らかに重心が高くなって安定感はなくなっている。まあこの程度なら馴れるだろう。新宿インターで首都高に乗って横浜を目指した。いつもは渋滞の激しい信濃町付近も、このときはすいていて順調に走ることが出来た。高速1号横羽線を南下する。川崎の工業地帯を抜け鶴見ジャンクションで高速5号大黒線に入るとすぐにベイブリッジが見えてきた。白い美しい橋だった。次にこのバイクに会えるのはイギリスだ。そう思うとこの橋でバイク写真を撮りたくなってしまった。当時は高速5号大黒線は出来たばかりで交通量が少なかった。そこでこっそり路肩に寄って記念写真をパチリ。
 橋を渡って大黒インターで降りるとジャパンエキスプレスの倉庫はすぐに見つかった。バイクを脇に停めて、中に入っていく。応対に出てきた人に書類を見せた。「ああ、あのバイクですね。」連絡は入っているようだ。「バイクはねえ、梱包が大変なんだ。でもうちは何回も送ってるから大丈夫だよ。」一体どのように梱包するのか見当もつかないが、プロにおまかせしよう。
 燃料コックを閉めてエンジンをかけ、キャブレターに残っているガソリンを空にした。次に使っていたバッテリーを外した。このバッテリーはもう不要だ。新しいバッテリーはバイクに積んである。1カ月半後にそれを使うことになるだろう。フロントスクリーンを取り外し、シートにガムテープで結わきつけた。
 これで準備は完了だ。手続も終わり引渡しは完了した。「無地にイギリスに届いてくれよ」とバイクにつぶやく。しばしのお分かれだった。

 1カ月半後、出発の時が来た。早朝出発だったので誰にも時間を教えてなかったのだが、駅まで行ったら友人が何人か立っていた。見送るためにわざわざ待っていてくれたのだ。
「そうかあ、とうとう本気で行くのか。」「事故るなよ」「まあ、無事で帰ってこいよ」「お土産忘れないでね・・」友人達の元気な声に励まされる。
両親はずっと黙っていたが、最後に「じゃあ元気でね」と小さく私に声をかけた。
私は「うん、わかった。じゃあ、行ってくるから。」と返事をした。

私はイギリスに向けて旅立った。

 

  


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